1 夜行バス

地元の町を夜の十時に出発した高速バスは、一路東京をめざし高速道路をひた走っていた。
 荷物は中型のキャリーケースがひとつだけ。あとの私物はすでに東京の新居に送ってある。
 三月も、残すところあと三日。四月からは大学生。新生活が始まる。初めてとなる東京での生活、初めての一人暮らし。姉たちや妹たちに虐げられつづけた忍耐の日々とはおさらばだ。オレは東京に行って、これまでとは違う人間になるのだ。そう誓っての上京だった。
 とりあえずの目標は真っ当な大学生となること。なんぞサークルにでも所属して青春を謳歌し、きっと出会うであろうかわいい女の子と恋をするのだ。それがオレの目下の夢であり目標だった。
 今度はきっとうまくいくはずだ。
 なにしろ「ヤツ」を置いてきたのだ。
 出発前、「ヤツ」とは話しあった。これまでの日々を、そしてオレと「ヤツ」との関係を振り返れば当然のことであった。小学校から高校に至るまで、オレは「ヤツ」の助けを借りて幾度となく急場をしのいできたのだ。運動会の徒競走では背中から押してもらい、学芸会のお芝居でセリフを忘れたときには耳もとでそれを囁いてもらい、ケンカの際は相手の足もとをすくってもらい(もちろんオレは相手が転んだすきに一目散に逃げる)、といった具合にオレは人生の様々な局面でヤツの助けを借りてきた。それには感謝している。
 だが邪魔もされた。
 とくにオレが女子に懸想するとき、「ヤツ」はあからさまに不機嫌になってオレの恋路に落とし穴を掘ったり壁をつくったりと、およそ思いつく限りの妨害をしてきたものだった。
 それはともかく、このままヤツといたのでは一生自立できそうにない。そこで大学入学を機に誓ったのだった。一人で生きていこうと。
 オレは目を血走らせて「ヤツ」に訴えた。男には庇護者の元から離れて生きていかねばならぬときがくるのだ、そしていまがそのときなのだ、と。
「あっそ」
「ヤツ」はそう答えた。
「じゃあ勝手にすれば」
 拍子抜けするような聞き分けの良さであった。
 オレは「ヤツ」の手をとり、「夏休みや正月には帰って来るからさ」と笑顔で別れを告げた。
 やった。これで自由の身だ!
 そう思ってバスに乗った。
 なのに、これはなんだろう。
 実を言えばさっきから、頬をなにか冷たいものが伝っていた。どうも発信源は左右の目であるらしい。その目はといえば潤んでいるのがぼやけた視界からわかる。
「沙羅」
 オレは「ヤツ」の名を呼んだ。
「……ごめん」
 口にすると、ますます涙腺がゆるんできた。
 いかんいかん、せっかくの門出だというのに涙なんぞで湿らせるとは。
 楽しいことを考えよう。
 バスは明日の朝には東京駅のバスターミナルに到着する。そこからは電車に乗って二十三区内の某所にある新居に向かう。
 先程、「一人暮らし」と言ったが、正確には違う。「一人暮らし」というのは家族から離れて一人で暮らすという意味であって、オレの向かう先にはほかにも住人がいる。
 いわゆる「シェアハウス」というやつだ。
 しかもオレは、その「シェアハウス」に管理人として乗り込むのである。
 十八歳の大学一年生がなぜ管理人なのか?
 簡単に説明すると、こういうことだ。
「犬千代、大学に受かったらうちのシェアハウスに住め」
 大学入試を控えた正月のこと、オレにそう言ってきたのは母の兄である宏大伯父さんとその妻の梨紗伯母さんだった。
 東京の大学で民族学を教えている伯父さんは、都内にビルやマンション、幼稚園、病院などを持つ資産家で、広い自宅の一部はシェアハウスにしている。
「家賃はただにしてやるから、そのかわり管理人をやってくれ」
 うまい話には裏があるという通り、伯父さんは条件を出してきた。素直に明かすと、このときオレは内心「え~」と思った。どうせ東京に出るならアパートで自由に一人暮らしがしたい。親戚の監視の目があるような場所で、しかも管理人などという面倒くさそうなことをやらされるのは真っ平だった。
 思っただけではない、オレは口でも「ち、ちょっと待ってよ。そんなこと急に言われても」と不平を洩らした。
「ちょっと待つのはお前の方だ。人の話は黙って最後まで聞け」
 伯父さんにそう言われ、オレはとりあえず警戒を解かずに話とやらを聞くことにした。
 話は悪いものではなかった。いや、聞いているうちにむしろ素晴らしいものに思えてきた。
「実はこの春から俺は大学を休む。梨紗と二人で何年かかかる長い旅に出るんだ。その間、家とシェアハウスをお前に任せたい」
 これでオレのコンパスはぐるりと変針した。伯父さん夫婦には子供がいないから、夫と妻が旅に出れば家はもぬけの殻となる。
 ということは、第一の障壁である「監視」はクリアだ。
 イエーイ、ってなもんだ。
「入居者はみんないいコたちばかりだからな。手がかからなくていいぞ」
「いいコたち?」
「コ」に反応したのは言うまでもない。
「あ、言っていなかったか。うちのシェアハウスは女子しかいないんだ。下は中学生から上は二十三歳の公務員。いまんとこ住人は五人だな」
 伯父さんは見透かすような目でオレを見るとニヤリとした。
「どのコも器量良しなんだけどな、聞いてわかるようにシェアハウスなんかに暮らしているくらいだから彼氏がいないんだ」
 オレは手のひらを返した。
「おまかせください!」
 ついでに胸も張った。
「不肖駿河犬千代、伯父さんたちのシェアハウスを管理させていただきます!」
「よしよし、これでお前にかけられた呪いも解けることだろうよ」
「また始まった。オレそんなものにかかっていませんけど」
 なにもなくてもすぐに「呪い」とか「祟り」とか言い出すのは伯父さんの癖だった。
「絶対に悪いことはないわ」
 そう言ったのは横にいた梨紗伯母さんだった。
「とにかくうちのシェアハウスに来なさい。あなたたちのためよ」
 あなたたち、と言われてオレは少し興奮した。伯母さんは五人いる女子とオレを引き合わせて、そこからなにか花が咲けばいいとでも願っているようだった。
 咲かせてみようじゃないの。恋の花でも青春の花でもウエルカムっすよ。
「行きます! 万難も受験もブレークスルーして行きます。行ってみせます!」
 宏大伯父さんは満足げに頷くと、鼻息を荒くしている甥に「我が家は勇気のある男が好みだからな」とはっぱをかけた。まるで「家」に人格があるみたいな言い方だったけれど、たぶん住人たちのことを指していたのだろう。オレはそう解釈した。

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