それからの一ヶ月間のオレの猛勉強ぶりは駿河家の歴史に「奇跡」として記されるに値するものであった。尋常でないガリ勉は功を奏し、オレは記念受験で終わるはずだったまさかの第一志望合格を果たした。そしてそれはオレだけではなく思わぬ福音をもう一人の受験生にももたらした。へたれ兄の変貌に負けてはならぬと奮起した双子の妹の波琉は、これも合否五分五分の確率であった国立大への進学を成し遂げた。
 その双子のかたわれは、すでにオレより一足早く上京している。住まいはやはり都内の大学に通っている二歳上の碧姉のアパートだ。二人はここで一緒に暮らすことになっている。
 ついでだから説明してしまうと、オレにはこのほかに四つ上の姉と八歳下の妹がいる。長姉の安寿はこの春に大学を卒業し、オレや波琉とは入れ替わりに地元に戻って来た。四月からは県内の中学校で教師をすることになっている。
 末の妹の眞音はこの春で小学五年。オレにとっては長らく唯一御すことのできる妹であったが、ここ一、二年のうちに姉たちの影響を受けてどんどん兄を見下すようになってきた。完全に立場が逆転せぬうちに袂を分かつことができたのは幸いと言えよう。
 ちなみに眞音と波琉の間にはもう一人妹がいる。こいつの話はここではやめておこう。
 なぜならば、こいつのことを思うと、またさっきのような感傷に浸ることになってしまうからだ。
 一瞬、顔を伏せたオレは「いや、いいんだこれで」と呟き、ふたたび外に顔を向けた。
 灯りのほとんどない田舎を走るバスの窓はなかば鏡と化していた。外を見ようとしても、見えるのは自分の泣いた顔と映り込んだ車内の空間だけだ。
 つんつん、と後ろからわずかに頬をつつかれる感触がした。
「……?」
 オレはゆっくりと顔をそっちに向けた。
 そして目ん玉が飛び出るくらい大きく目を見開いた。
「さ…沙羅」
 目の前に、沙羅の顔があった。シートの肘掛けに乗って、こっちを見ている。
「なに一人でぶつぶつ言ってんの?」
 沙羅が訊いた。
「犬千代、ひょっとして泣いてた?」
 細い指がオレの頬をなぞった。
「わかった。わたしと離れて寂しかったんだ」
 ニッと笑うその下は、いつものパジャマ姿だった。
「おおお、お前っ、な、な、なんでいる?」
 声を裏返したオレに、妹は顔を寄せ、「しっ!」と指を口に当ててみせた。
「声大きいよ。ほかの人に聞こえるよ」
 バスはがら空きだったが、乗客はほかにもいる。オレはぐっと声を抑え、低いが鋭い声で詰問した。
「言ったじゃないか。東京には一人で行くって。勝手にすればって言ったのは誰だよ」
「わたしだよ」
 妹はオレから顔を離すと立ち上がり、点検するようにバスの車内を見回した。そしてまたこちらを見ると「ふう」と息をして肩をすくめてみせた。
「仕方ないじゃん。気が付いたらこのバスのなかにいたんだから」
「……またかよ」
 ぼやくオレに、沙羅は屈託なく笑ってみせた。
「修学旅行や受験のときと一緒だよ。結局、犬千代とわたしは離れられないんだよ」
 髪型は三歳児のころから変わらないボブ。だけどそこにあるのは十五歳に成長した顔。その顔が笑っている。
「あのときもそうだったじゃん。ついて行かないことになっていたのに、いつの間にか横にいるんだもん」
 そうなのだった。高二の修学旅行も受験のときも、オレは沙羅に「一人で行く」と宣言して家を出た。なのにある程度家から離れると、たとえ飛行機のなかだろうが新幹線のなかだろうが必ず沙羅が現われるのだった。そこから導き出された結論は、どうもオレとこいつはある一定の距離以上は離れることができないらしい、ということだった。二人の間がそれを越えると、沙羅はどこにいても自動的かつ強制的にオレの前にやって来るのだ。次元の壁も物理の壁も瞬速で乗り越えて、やすやすとだ。
 二度あることは三度ある。
 沙羅は、ふたたび顔を近づけてくるとオレの胸の内を代弁した。
「犬千代だって、本当は心のどこかでこうなるんじゃないかって思っていたんじゃないの」
 それは自分も同じだろう。だからオレの提案に「あっそ」と簡単に答えたのだ。こいつにはこうなるということがはじめからわかっていたのだ。
 打ち明けよう。
 さっきは「自立」だの「男とは」だの「自由」だのと勇ましい言葉を振りかざしていたオレだけど、一方で心の奥底ではこうなればいいと願っていたのである。
「ヤツ」こと沙羅はただの妹ではない。
 こいつにはオレしかいない。オレがいなくなると一人ぼっちになってしまう。
 一人遊びは得意なやつだが、本当にそうしてしまうのは忍びない。
 それでもオレは心を鬼にして沙羅からの自立を計った。姉たちの圧政下ですっかり下僕体質に育ってしまったオレだけど、高校卒業を迎えて男子として脱皮を決意したのは前述した通りである。

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